逆境に乾杯
- あの人の逆境
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詐欺同然で鉱山事業に失敗
家族を抱えて無職無一文に -
高橋是清(1854~1936)
- update:2018/01/26
二・二六事件で暗殺されるまで、高橋是清は6回も大蔵大臣を務めました。日本の経済的危機を何度も救い、欧米の経済学者からも高く評価されている「髙橋財政」。その秘訣とは、結局のところ、「お金とは何か」を理解することに尽きたのではないでしょうか。
たとえば日露戦争の戦費調達。
日銀副総裁だった是清は、英米の銀行家を相手に、圧倒的不利と伝えられていた日本の国債を買わせることに成功します。総理大臣から再度の調達を相談されると、金額をたしかめ、「それくらいなら私の電信一本でできる」と即答したそうな。
「戦に負けても出来るか」
「それは負けよう次第です。負けたとしても、どっかで踏みとどまる時がありましょう。その時、機会が来るのです」
あるいは昭和金融恐慌。
取り付け騒ぎが起きて、ピンチヒッターさながらに大蔵大臣に就任すると、3週間の支払い猶予措置を発令。その間に紙幣を増刷し、片面だけ印刷した200円札を銀行の窓口に大量に積み上げさせて、預金者の不安を払拭したとか。
お金とは「信用」を媒介する言語であり、是清はその語彙や文法に習熟していた。嘘のような逸話と、彼が正課の学問を積んでいないという事実を踏まえると、そのように察するほかありません。
人間は元来無一物で生まれてきた。もとに戻ったと思えば、たいがいは順境である。
留学先のアメリカで奴隷として売られてしまったり、相場に手を出しては元手をすってしまうなど、高橋是清の人生は逆境の連続。その最たるものがペルー銀山事件です。
英語力を活かして初代特許局局長に出世した是清は、30代半ばでその職を投げうって鉱山事業の責任者に就任。はるかペルーに赴くや、良鉱と聞いていた鉱山は、まさかの廃鉱でした。
栄枯盛衰は人生の常である。順境は、いつまでもつづくものではなく、逆境も、心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることも出来る。
帰国後は1,500坪のお屋敷を売りはらって近所の裏長屋に引越し。奥さんや子どもたちは「せめて別の町に」とこぼしたそうですが、「自分は平気であった」。
なぜなら、その私財はドイツ人共同経営者との清算手続きに充てられました。「個人の財産」と「国家の信用」では、秤にかけるまでもない。日本初の外国事業で遺恨を残すより、一家が破産したほうが「安い」。おそらくそんな感覚だったでしょう。
硬貨に紙幣、為替にクレジットカード、電子マネーや仮想通貨……。お金の形はさまざまです。寺小姓、洋館のボーイ、英語教員、芸者の荷物持ち、学校経営者、相場師、仲買人……。高橋是清も、さまざまな職業を転々としました。
日本銀行に入職し、日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任することになったのは、ペルー銀山事件での破産がきっかけです。その事実をもってすると、「お金という言語」の習得にあたっては、境遇や職位にこだわる私心を捨てなければならないようです。
幕府御用絵師の私生児として生まれ、下級武士の養子となり、留学先では奴隷として売られ、帰国したら幕府は解体していた……等々、幼少時から波瀾万丈の人生を歩んできた高橋是清。しかし、子どもの頃に周囲の大人から「髙橋の子は幸せ者だ」と言われたために、「自分は運がいい」と思い込んでいたそうです。
後年にいたっては「世の人は私を楽天家と云うが、自分でもそうだと思う」。自認したうえで、次のような一家言を遺しました。
「私は考えるに、真実の楽天的境地というものは、人事を尽した後でなければ得られるものではない。事にあたっては、まずそれが正しきや否やを考え、正しいとの確信を得たならば、自己の全智全霊を傾倒して最善を尽す。正しきがゆえに何物にも畏れるところがない。また自己の全智全霊を打ち込んで努力するがゆえに、思い残すところは更にない。而して後はただ天のあたうるところに任せるのみである。即ち事成ればもとより快、成らずとも尚快たるを失わない。ここに至って初めて天を楽しむことが出来ると思う」
参考資料
『高橋是清自伝 上・下』(著:高橋是清)中央公論新社、1976年刊
『随想録』(著:高橋是清)中央公論新社、2010年刊