逆境に乾杯
- あの人の逆境
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負けたままでは帰れない、
だって私は女だから -
人見絹枝(1907~1931)
- update:2017/12/22
1928年アムステルダムオリンピック、女子800m走銀メダル。
成し遂げた人見絹枝にとって、それは「快挙」ではなく「みじめな敗戦」でした。彼女自身が目指していたのは、800mではなく100mの優勝だったからです。
その2年前にヨーテボリで開催された国際女子競技大会では、参加9カ国120人中、個人最多得点をあげ、名誉賞を受賞。国内大会では100m走の世界記録を更新。「世界のヒトミ」として周囲の期待を背負って喫した、まさかの準決勝敗退。
急きょ、経験のない800m走への出場を決めたときの心境を、人見は次のように綴っています。
男子の選手等は各自の定められた種目に負けたとて、日本に帰れないこともない。
私にはそのようなことは許されない。
百メートルに負けました! と言って日本の地を踏める身か、踏むような人間か!
日本選手団43名中、女性はただ1人。日本の社会に「モダン・ガール」や「職業婦人」はいても、女性アスリートは存在しなかった時代。彼女が背負っていたのは、あらゆる競技における日本の女子選手の、未来そのものでした。
私は前後を果たしていない
アムステルダムから帰国した後、人見絹枝は次の国際大会へ向けて奔走します。
女子選手団の結成と、遠征費用の工面。後輩の指導と育成。代表選手としての講演活動、執筆活動。そして競技者としての練習と研究。
自ら課した過酷な生活は、ギリシャ彫刻に喩えられたその身体を「削りにかけられた鰹節」のように変えてゆきました。いったい何が彼女をそこまで駆りたてたのでしょうか?
最後をまっとうしていない。
立派な最後を残していない。
立派な後輩はない。
そうだ、私は前後を果し得ていない。
競技生活とマスコミへの対応に疲れきって引退を考えたとき、人見を押し留めたのは「前後を果たす」という使命感です。なぜなら、「初めての快挙」を成し遂げた彼女にも「先輩」がいました。
国際女子スポーツ連盟を立ち上げ、オリンピック種目に女子陸上競技を加えることに尽力したアリス・ミリヤ会長。
私財を投げうって二階堂女塾(現在の日本女子体育大学)を創立し、日本の女子体育の発展に寄与した二階堂トクヨ。
彼女たちの薫陶を受けた人見は、1930年プラハで開催された第3回国際女子競技大会に、5名の「妹たち」を率いて出場しました。
スポーツマンシップとは、努力した者を敬い、努力する者を励ますことである。24歳7ヶ月という短い生涯にして、それを余すところなく後世へ伝えてくれます。
女学校時代から国内の大会で実力を発揮した人見絹枝は、19歳のときに大阪毎日新聞社にスカウトされます。度々の国際大会への遠征は、新聞社運動部所属社員としての「仕事」の一環でした。天は二物を与えず、とは言いますが、人見絹枝は身体能力だけでなく文才にも恵まれたようです。自伝では、代表選手として国際大会に出場する重圧を語るばかりでなく、「走る喜び」を次のように表しています。
「暑くて暑くて社の仕事もいやになってくる。午後三、四時、少し社の方が暇になると直ぐ築港の運動場へ出かける。十分暇のある時は電車、暇のない時は小遣いを絞って一円タクシーを飛ばす。社の中で多くの男の人達に揉まれていれば、つい怒りたくもなり、気も短くなる。従って仕事もうまく捗らない。しかし広々した運動場に立つと、すべての鬱憤は消えてしまって、とても真剣になる。チャッチャッチャッとジョグをはじめるともう全く無我の境地だ。」
参考資料
『人間の記録32 人見絹枝 「炎のスプリンター」』(人見絹枝)日本図書センター、1997年刊
『最新女子陸上競技法』(人見絹枝)文展堂書店、1926年刊